こんばんは!旅再開(仮)記念の怒涛のブログ更新続いてはルワンダ!
あ、今現在はアルバニアにいますよ!
ルワンダを訪れたのは11月29日のこと、
ケニアからウガンダ、ウガンダからルワンダへと、2連続夜行バス移動してきました。
アフリカは日本人にはどの国もなじみがないけど、ここルワンダ(ウガンダもだけど)は、アフリカを旅する日本人の中でもあまり行く人は少ないほう。でも私は、この国は絶対絶対ぜーーーーったい行きたいと決めていました(-_-)
それはなぜか。
ここ、虐殺記念館を訪れるためです。
ルワンダの大虐殺って、知っていますか?
私は、映画「ホテル・ルワンダ」と、「ルワンダの涙」で知りました。
1994年4月6日に発生したルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の暗殺からルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまでの約100日間に、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチとフツ穏健派が殺害された。(wikipedia参照)
ここで言われている、ツチ族とフツ族って、元々は同一のものという説が強いのです。それが、ヨーロッパの植民地化を受けて、中程度の背丈とずんぐりした体系を持つのが「フツ」、痩せ型で鼻の高く長身な「ツチ」、というような区別がされたとか。とにかく、ツチとフツ同氏の婚姻も行われていたし、宗教、言語、文化にも差異がないらしいのです。
ヨーロッパ支配下のアフリカでは、長い間ツチの優遇が行われてきました。
ツチの割合は、フツよりもずっと少なく、フツの人々は、長いこと彼らへの不満を募らせていたようです。
その長年の確執が、大統領暗殺事件をきっかけに、最悪の形で爆発してしまったのがルワンダ虐殺。
ルワンダ虐殺は、民間人が民間人を虐殺する、信じがたい悲劇でした。
隣人が隣人を、家族が家族を、昨日まで一緒に暮らしてきた仲間を、ナタや斧、弓矢や銃で虐殺したらしいのです。
その被害者は正確には把握されていないものの、50万人から100万人の間、つまり国民の10%から20%が100日の間に虐殺されました。その当時私は小学生だったはずです。
現代に、そんな悲劇が起こり得るんだ。
なぜ100日もの間、世界は虐殺行為を止められなかったのだろう。
映画「ホテル・ルワンダ」では、虐殺が始まった当時にルワンダに居合わせたヨーロッパの(国は忘れた...)ジャーナリストが、事実を伝えようと危険を承知でカメラを回しながらも、一方で、こんなことを言います。「世界の人々は、食卓の前でこのニュースを見、何とひどい、可哀想に、と思うだろう。そして食事を続けるだろう」
私たちもそうであったに違いありません。今現在もそうなのですから。
虐殺記念館では当時の時系列を詳しくまとめた年表や、虐殺に使われた武器、人の骨、無残にも殺されてしまった子供たちの写真と、殺されたときの様子が展示されてあります。
「子供たちの部屋」をじっくり見てしまいました。
小さな子供たちが、生前幸せに暮らしていたころの顔写真に、その子の名前、好きな食べ物、趣味、将来の夢とともに、亡くなった年齢と殺された経緯が添えられています。
お母さんの腕の中で頭を打たれて即死だった。
ナタで切られた。
家族全員が死ぬのを見た後、殺された。
どれも辛い内容ばかりでした。
今のルワンダは驚くほどにきれいです。
ナイロビよりも、
タンザニアのダルエスサラームよりも、ずっとずっとキレイな街並み。
道路は整備され、交通マナーは行き届いています。
バイクタクシーが主流な移動手段で、運転手は必ず自分と客の分のヘルメットを装備しています。バイクタクシーに乗っている間、道路状況は快適でまったくガタガタ言わないし、土埃も巻き上がりません。
嘘のように平和な街並み。この国で遠くない過去に、そんな悲劇が起こったのですね。
ルワンダでは、この虐殺記念館の他に、嘘の情報で誘い込まれたツチの人々が、一夜にして皆殺しにされた教会を訪れ、壁に残る生々しい血痕や、大量の骨を見たりしました。
映画「ホテル・ルワンダ」の舞台になった、ホテル・ミルコリンズ。ルワンダ虐殺の中で数少ない、わずかに希望の残った場所です。
副支配人であったポール・ルセサバギナさんが、1268人をホテルに匿い、救いました。
今このホテルはすっかり改装されていました。
映画の中で、ついに水道が止められたとき、何とかプールの水を使ってしのいだ、例のプール。
プールサイドのカフェテリアでココアを飲んで休憩しました。
今この国は、悲劇から立ち直る努力のさなかにあります。
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